行動しない人間ほど偏見や固定観念が多い。やってみればすぐ分かることも、自分では動かないので思い込みが見直されることもない。不思議な話だけど、思考の柔軟性は行動量に依存してる。
— 佐藤航陽(さとうかつあき) (@ka2aki86) December 31, 2017
こんなポストを見かけた。確かにすぎるだろ。
全然外に出なくなった両親とか、口ばっかで動かない友人とかほど、『〇〇はXXだから』みたいな偏見を持ちがちなのは体感としても納得感があった。
百聞は一見にしかず
『百聞は一見にしかず』ということわざがある。
一〇〇回聞くより一回見るほうがよくわかる。何度繰り返し聞いても、一度実際に見ることに及ばない。(出典 日本国語大辞典)
由来を調べると紀元前一世紀、前漢王朝の時代の中国で異民族の攻撃への対応策を問われた老齢の将軍、趙充国(ちょう じゅうこく)は、「百聞は一見に如かず(何度、報告を聞いたって、実際にその場に行って見るには及びません)」と述べ自ら現場に駆けつけようとした、ということかららしい。
戦が蔓延ってた当時と現代では状況はもちろん異なるが、詰まるところ『より深く理解するために効率的な方法』という話をしている。
百見は〇〇にしかず
『百聞は一見にしかず』を『より深く理解するために効率的な方法』 という観点で見た時、
- すぐに一見できるなら聞きまくるフェーズはすっ飛ばした方がいいな
- “一見した者” から聞く 一聞 は明らかに価値が高いな
- 一見するよりも深く理解する方法はないかな?
などが思いつく。
すぐに一見できるなら聞きまくるフェーズはすっ飛ばした方がいいな
→ そうだと思う。インプットにおけるタイパが良いし情報の質も上がる。
百聞って砂の中から砂金を見つけるようなもので、ノイズが多すぎるからほとんど意味ないような気がしている。
特にネットで情報が無限に流れ続けている現代においては、誤情報も多いしそもそも百聞で済まないことも多いからタチ悪い。
“一見した者” から聞く 一聞 は明らかに価値が高いな
→ これもそうだと思う。そりゃそうだよね。
「誰が語るか」が重要視されるのはこういった側面も作用してるのだと思う。
結局現代における「百聞」ってほとんどメディアからだと思うけど、メディアも情報も溢れすぎてるから全部は聞いてられない。そうなると確かな情報ソースを求めて自ずと「一見した者」(に匹敵する人・専門家)などの発言に飛びつくようなリテラシーにはなっていると思う。
一見するよりも深く理解する方法はないかな?
思うに『百見は一行にしかず』なのだと思う。
「いちぎょう」ではなく「いっこう」。百回聞くより一回行動した方がより深く理解できるよね。
勿体ぶって出すほどの意外性はないかもしれないけど、まあ感覚的にも納得してもらえる内容だと思う。
「自転車の乗り方」を百回見るよりも、一回やってみる方が遥かに理解できる。
まあ「見る」というのも一つのアクション(一行)とも取れるので、厳密には百見分に相当するかはちょっと審議入るかもしれないけど。
とはいえ元ポストにも通づるところだけど、同じ事柄を「一行で理解しようとする者」と「一万聞で理解しようとする者」がいた時、どちらが速くて正確そうかは想像に難くない。
なまじネットに情報が溢れかえり何でも調べられる現代では、一万聞アプローチを取ろうとしてしまう気持ちもちょっと理解できる。行動は面倒臭いからだ。
行動は面倒くさい
当たり前ながら、行動は多くのMPを消費するので面倒臭い。
- ゲーム自体は遊んだことないけど、実況で見る
- 自身では行かないけど、アウトドア系のチャンネルが好き
- もうプレイはしないが、昔部活やクラブでやってたスポーツの動画をよく見る
こういうのあるある過ぎると思うし別に否定する気も毛頭ない。
ただ、今回のテーマでいう「理解量」の観点でいうと、実際に行動した者に比べたら見ただけの人は 1%程度しか理解していない かもしれないということ。
- 見るだけじゃ伝わらなかったコントローラの振動、手触り、ディレイ感、キャラクターの重み
- 見るだけじゃ感じられなかった草木の匂い、荷物の重さ、焚き火の安心感、静寂
- 見るだけじゃ認識できていなかった身体の動き、イメージとのギャップ、フィールドの空気感
一行に比べたら一見しただけのことなんて『ほとんど何も理解(わか)ってない』 のだ。
タイパよく理解量を増やす行動を見極めよう
念の為、私は『一行』が『一見』より100倍優れていると論じたいわけではない。
理解したいレベルに対して行動が過剰になることもあると思う。
例えば「一行」の方が理解量が多いからといって、すでに体系化されたことを、自分でゼロから試して時間をかけて学んだりするのは効率悪い。ドキュメントを読まずに手探りで環境構築するみたいなものだ。
行動は理解の“深さ”を高めるが、必ずしも“速さ”を保証しない。
目的が「理解」なら行動、「把握」なら視覚情報で十分なことも多い。
ということは認識しておきたい。
ただ、これを意識しておければ「やってみた方が速いな」という択を選べる。この択を持っていればタイパよく理解量を増やすにはどうすればいいかが見極めやすくなると思う。